セカイ系シナリオと「雨」の演出意図:天気の子4ヵ月遅レビュー④
「天気の子」のレビューないし解説ももう4回目です。
語れば語るほど長くなるのが悪いところで。
それだけ、言いたい事が多い映画だということでもあります。
今回は演出や世界観についてのお話です。
今作の「天気の子」は、「君の名は。」と空気感が違います。
明らかに従来の新海誠監督の世界観に戻っているんです。
一般受けするエンタメ作品から、まるで中小劇場で行われる様なマニアックな作品へ。
何故その世界観に戻ったのか、色々な観点から語って行きたいと思います。
セカイ系とダークサイドの融合
シナリオ全体は、いわゆるセカイ系シナリオの構成です。
セカイ系の定義は様々ですが、一般的ないし広義的には
主人公やヒロインなどの少年少女たちの活動が、社会の枠組みを通り越して世界規模の異変を起こす物語
と言うものです。
行政や政治を全く通さずに、その個人の併せ持つ力が世界に影響をもたらすって事です。
有名な作品では、「最終兵器彼女」や「なるたる」なんかが漫画やアニメにもなり、知ってる人もいるのでは。
この手のシナリオでは、超能力を持った人たちが行動することでどんどん世界の有様が変わっていきます。
なるたると言う漫画ないしアニメでも、謎の生物の持つ力によって少年少女が戦います。
それは政府の戦闘機であっても歯が立たず、世界はその生物が影響する力そのものに左右されていきます。
あまり「なるたる」は内容語るの難しいのでこの辺で。
で、この「天気の子」の世界観、暗いんですよね。
ずっと雨が続く世界とか。マジかよ、と思いますけど。
振り返ると、晴れ間のシーンがありながら、雨ばかり降るシーンを思い返す事が多いんではないでしょうか。
また、登場人物達は古いバーを使った事務所とか。
下町とか。
路地裏で謎の生物を見つけたり。
年数の経った、電車の振動で揺れるほどのボロアパートに住んでたり。
何かその、構想ビルばかり並ぶ、繁華街ばかりの東京にこんなとこあったのか?って疑問になるくらいディープスポットが多いんです。
完全に登場人物の活躍するフィールドが、アンダーグラウンド化してるんです。
ただ、ここで端から生活が充実していて暮らす様が描かれるとそれも違うと思います。
そのフィールドにいながらも、精一杯生きるさまを描くことによって、鬱屈した世界観との対比によってキャラクター像を際立たせているからです。
これがもしキレイな世界観で何不自由なく過ごしていたら、劇中のキャラクターの葛藤を薄くしてしまう可能性があります。
それだけ今の生活に疑問を抱かないからです。
不自由な世界観で考えて生きる様を見せるために、世界観を暗くした。
天気の子の土台はここから出来上がっています。
土台からして暗いこの世界観。
そこに前回のブログにも書いた、夏美の様な、雰囲気に引っ張られないキャラを配置して話を上手く転がしてること。
また、合間に挟むRADWIMPSの楽曲のパワーがエンタメとしての明るさを持ち上げてくれているのも、大きな成功の要因だと思います。
そして、今作における雨は、世界観のベースとは実は別の意味も含まれた演出意図がある事をここから語ります。
RADWIMPSのリード力
まず、RADWIMPSの楽曲が「君の名は」に続いて採用されているのは。
恐らく、新海誠との特性がほぼ反比例だからです。
劇中曲の「大丈夫」や、「グランドエスケープ」は、お世辞にも明るいとは言えない曲調です。
ただ、それであっても全体は抜けがよく透明感を出し、決してジメッとした曲調ではなく、何か悲しい思いを断ち切って送り出す勢いのようなものを感じる曲だとも思います。
また、「祝福」や「風たちの声」は、エネルギッシュに響くギターのビートがキレイに奏でられ、晴れ晴れとした雰囲気の中でアップテンポな曲調を維持したまま劇中曲として流れます。
それに加え、どちらのシーンでも帆高や陽菜を中心に忙しなく活躍し、新しい生活を充実している様が描かれています。
これは、シナリオ面だけでなく、楽曲も含めた演出として、全体の起承転結の節目を担っているようにもとれます。
緩急と、起承転結
少し話を逸らします。
私は一度、大学在学中に脚本を独学で学びました。
卒業制作と称して、1年間で作品を作り発表するための土台を作るためです。
その時に、起承転結や演出での緩急を学びました。
緩急とは
イメージしてみて下さい。
アクション映画はど派手なアクションが売りですが、本当に2時間終始、爆発、アクション、カーレースだけで構成されているでしょうか?
そんな映画疲れて見れたものではありません。
その中に人間ドラマがあったり、主人公が恋をしたり、ギャグシーンが挟んであったりするはずです。
これが緩急です。
アクション映画は緩=ドラマ、急=アクションシーンで作られるのでわかりやすいです。
起承転結とは
これもシナリオではよく聞きますね。
一番基本の構成法です。
起=地球滅亡の危機を迎える
承=色々と妨害が入りながら活動
転=まさか自分に世界を救う力が!?
結=無事に救えてバンザイ
こんな感じです。
物事が"起"こり、事象を"承"り、窮地を"転"じる機会を見つけ、"結"末を迎える。
と言う構成が、いわゆるベタな展開です。
新海誠作品での比較
閑話休題。
で、ポイントは。
これが今までの新海誠監督と演出の手法が大きく違うってことです。
今までの新海誠監督の手掛けた作品だと。
最初から途中までが物静かにゆっくり、まるで波風立てないように進んでいたと思えば。
急にラストに一気にパワーを叩き込んでくる、と言う雰囲気が多かったように思えます。
ようは、起承転結の"結"以外物静か過ぎるんで、エンタメとしてはめちゃくちゃ地味な作りだったんです。
まるで自然な日常を切り取り、そこだけ見せてるようなタッチだったんです。
登場人物もどちらかと言えばリアルで、人気声優が演じるのも物静かな大人な人間ばかり。
秒速5センチメートルの場合
「秒速5センチメートル」は正にそれを体現してますよね。
そもそもこのシナリオは少年少女達の恋心を美麗な背景の中魅せる内容になっており、二人が成長していく中、お互いの恋心の変化やすれ違いを見せる構成になっています。
どうやってもど派手にエンタメらしく波の立つ大振りな構成には出来ないんです。
加えて、ラストで山崎まさよしの「One more time, One more chance」を流して盛り上げるだけ盛り上げて。
見ていた視聴者に現実を突きつけて最後にガクッと落とす、と言う鬼畜の所業を見せつけてくれるわけですが。
いや最後そうなるんかい!!って思いましたけれども。
で、しかもその山崎まさよしの曲も決して明るい曲じゃないんです。
透明感があるのに、全体的に物悲しさが漂う曲調なんです。
あー、何か嫌な予感する曲だなー、と察してしまえるわけです。
そう、曲調も演出としてのコンセプトが決まっているのです。
天気の子の場合
それに対して、「天気の子」では大きく曲のコンセプトや演出方法が違います。
帆高の新しい生活を描きながら流れる「風たちの声」。
陽菜を中心に、帆高と凪が晴れ女の仕事で様々な人と出会う様を描く時の「祝福」。
帆高と陽菜が再び出会えたときに流れる「グランドエスケープ」。
ラストに流れる「大丈夫」。
それぞれのシーンはシナリオ上の起承転結の節目にあり、そこに対して楽曲のパワーも載せるという演出を行っています。
それにより、曲のパワーでシナリオ全体に緩急の波を大きく付けることが出来、エンタメらしい起伏のある作品に仕上げることに成功しています。
舞台演出を参考にした?
で、この演出方法。
まるでPVのようだと仰られる方もいますが。
私は、これは演劇の演出のように取れるのです。
私も舞台を見なくなって久しいですが、確か舞台上の登場人物が歌と共にセリフを喋る演出があるんです。
曲が流れている間、メインの登場人物は一人にスポットライトが当たった中、長セリフを情緒たっぷりに喋り、また一人にスポットがきり代わりセリフを喋る。
この表現手法は、「祝福」・「風たちの声」・「大丈夫」などが流れるシーンで帆高がセリフを読み上げるシーンと非常に似ています。
それに加え、新海誠監督は「雲のむこう、約束の場所」を2018年に舞台化させています。
この関わっていた時期に、何かしら勉強のために演劇のVHSを見た可能性は否定出来ません。
これらの演出技法を新海誠監督がインスピレーションとして取り入れ、「天気の子」の演出があるのではないか、と思えます。
雨が表しているモノの「正体」
雨が降る、と言うことはどういう事か。
私はこの作品についてしばらく考えていました。
よく見るアニメ作品とは違う点として、雨がメインのキーワードになっていることにまず気づきます。
通常なら雨はアニメの演出上、悲しみや不安の比喩表現であり、不穏さを感じさせる天候です。
そう、頻繁に使うものではないのです。
たまに利用する事で効果的に働く、重い演出表現なのです。
ただ、雨の使い方がどうも従来のアニメと違うんです。
陽菜が現実世界に帰った時にも、それにより再び雨が振り続ける東京に戻った、と取れる描写になりました。
私はこの描写に違和感を感じませんでした。
ですが、これは本当はおかしいんです。
晴れでないとおかしいと思うはずが、雨の降る世界観に"戻った"、と思ってしまったのです。
つまり、この劇中での世界観の描写としては、晴れが正常な描写ではないんです。
むしろ、晴れ自体が腑に落ちない世界観に仕上がっているんです。
何故かわかりませんが、思い返しても晴れの描写であればあるほど違和感が出てしまうのです。
これをまとめながら思いました。
この雨天が続く世界観は、設定としての土台もありながら、もう一つの役割がもたされているのではないか。
誰かの精神を表しているのではないか、と。
それは、陽菜が晴れ女として天候とリンクして影響させていると言う話ではありません。
飽くまでそれは、「天気の子」の"設定"なのです。
もっと心理描写が求められる、劇中の人物がいるのではないかと感じるのです。
この登場人物の中で、当てはまる人物と言えば1人しかいません。
主人公である帆高の精神状態を、代理で表現していたのではないか。と。
ただ、勿論全て心理描写に割いているとも思えません。
晴れ女としてのビジネスをしてる最中は飽くまでお遊びのシーンとして表現してると思います。
それでも、中高生の、思春期のメンタルをストレートでなく別の形で見せる事で、帆高の気持ちとリンクさせる演出が出来たからこそ、違和感のない世界観を構築できたのではないか、と考えると妙に納得出来てしまうのです。
全てを見返せていないのでこれらの確証は持てませんが。
明らかに心理描写に利用しているシーンだけ紹介します。
帆高と陽菜が数年ぶりに出会うラスト。
雲の合間から差し込む光。
二人を照らすように晴れていく天気。
それは、本来力を失った陽菜には決して出来ないことです。
それであれば、雲が開けた理由はただ一つ。
帆高が、世界の天候と引き換えに陽菜を選んで間違いは無かったとの再認識を、この表現を以て演出として表した、のではないか。
だから「大丈夫」を流したのではないか。
帆高の確信を、曲のパワーと一緒に天気を持って表現する事で間違いのなかったものだったと伝えたかったのではないか。
そうだとしたら、正に「天気の子」に相応しい主人公と、素晴らしい演出だなと思います。
キャラクターによる明るさ
さて、これだけで天気の子のシナリオは進みません。
こんなシナリオで、登場人物もジメジメして迷ったキャラばかりだと思って下さい。
もし夏美のようなキャラがいなかったら、あのシナリオは間違いなく破綻してます。
多分、帆高は陽菜にすら出会えていない可能性があります。
今までの新海誠なら、帆高はまず勝手に島を出るどころか島の中で蹲ることと思います。
本来こう言うシナリオが得意な人じゃないんで。
夏美や、凪、そしてどちらかと言えば陽菜も話を動かすキャラクターです。
帆高や圭介はシナリオに振り回されるキャラクターで、被害者であったり受け身であったり。または引き止める役割であったり。
こうして見ると、子供や女性陣の方がマンパワーが強く、男性陣は受け身なのも、セカイ系シナリオに多く見られる特徴かとも思います。
キャラデザも明らかに変わりました。
従来までは何か素朴なタッチだったのが、目鼻立ちもクリッとして髪型なども造形がシルエットでもわかりやすくなり、全体的にアニメ寄りです。
ビジュアルやキャラクターの立ち位置をしっかりと役割を持たせることで、風景に馴染むのではなく、あくまでも1つのキャラとして劇中に立たせて、演じさせるのも大きく変わったポイントだと思います。
あとがき
シナリオ構成や演出に、明らかな違いが出た「天気の子」。
「君の名は。」で大ヒットを得た新海誠監督でしたが、あまり腑に落ちない所もあったのか、敢えて批判される作品を作ろうとしたとの事。
それは、自分自身が納得していない作りだったのか。
それとも、売れる作品を作ること自体が許せなかったのか。
真実は新海誠監督の心の中ですが、私はこう思います。
作りたい作品を作りたかったんだと。
自分の中にある正解を今の技術で作りたかっただけなんだと。
イチ素人クリエイター未満の私からは、そう見て取れます。